内村鑑三のことば

<家庭の意義>

 家庭とはもちろん家屋のことではありません。もちろん家庭を作るには家屋は必要であります。しかしながら、家屋があればそれで家庭ができたとは言われません。家屋は物でありまして、家庭は精神であります。この事を知ることが家庭を作る上に最も必要であります。

 家庭はまた家族ではありません。もちろん家庭は家族と共に作るものであります。しかしながら家族のある所には必ず家庭はあるとは言われません。
家族は肉体でありまして、家庭は霊魂であります。この事をもよく心にわきまえないで、真実の家庭を作ることはできません。家屋があっても家庭はない、家族があっても家庭はないと言いましたならば、多くの人々は家庭の何たるかを知るにははなはだ困りましょう。そのゆえは、世に言う多くの家庭なるものは、実は家庭ではなくして、家屋または家族にすぎないからであります。

 前にも申しましたとおり、家庭は精神であって、物ではありません。霊魂であって、肉体ではありません。これは精神の和合によって成るものであります。そうして精神の和合は霊魂の同感より来たるものであります。シナの忠孝道徳が家庭を作ることのできないのは、これに、霊魂を生かし、これを改造(つくりかえ)るの力がないからであります。親の命をもって孝をその子に強うる所に幸福なる家庭はありません。自由のない所には道徳はないと申しますが、
自由なる愛のない所に幸福なる家庭はありません
 

 愛は発動的のものでありまして、これは外から打ち込むことのできるものでなく、また命令をもって引き出すことのできるものではありません。ゆえに忠孝道徳の作った家庭は(もしこれを家庭と称することができるならば)、礼儀的すなわち機械的であります。これは無理に作った家庭であります。その家族なる者は、戦々兢々薄氷を踏むがごときの感をもって、ひとえに恭謙おのれを持せんとする者であります。そうしてかかるきゅうくつなる家庭をもって、世の戦場の中に建てられたる休息所と見なすことはできません。
 

 家庭とは、神より受けた者がその愛を相互に交換する所であります。これはそれゆえに教会の一種であります 。ただ家庭にありては、愛が少数者の間に限られるのと、霊魂の愛に加うるに肉体の天然自然の愛をもってするの差違があるまでであります。教会を縮めたものが家庭でありまして、これをひろげたものが国家であります。家庭は国家の基本であると言いまするのは、これは国家の単位であり、また縮画であり、また小模範であるからであります。

内村鑑三(1903年4−6月 『聖書之研究』)(信20/19−)

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